先生と呼ばれる者の心がまえ

世の中には、先生と呼ばれるたくさんの職業があります。私たち医者をはじめ学校の先生、弁護士、学者、国会議員など政治家の先生、ピアノやお習字といったお稽古ごとの先生など、先生と呼ぶことが一般的な職業もあれば、職人さんにとっての師匠も「先生」と呼ばれます。またスポーツクラブのインストラクターやヨガの先生のように、先生と呼ぶ人もいれば呼ばない人もいるような職業も。
人からなにかを学ぼう、教わろうと思ったとき、教えてくれる方へ尊敬と感謝のよ念を込めて「先生」と呼ぶ。それが自然な流れでしょう。
社会は「先生」と呼ばれる立場の人に、信頼するにふさわしい人間であることを期待しています。それが「先生」の守備範囲であろうとなかろうと。専門分野についてであれば当然、相手の求めに応じた教えなり、技術なり、情報なりを提供すべきですし、専門分野外においても、できることならば「先生」らしい言動であることが理想でしょう。だからこそ私は人から「先生」と呼ばれるとき、いつも身の引き締まる思いがしています。一日の中で、自分が医者の顔をしていないときに呼ばれた場合は特にそうですね。
求められれば全力で提供する。わたしはこれがなにかを提供する側の「プロ」としての姿勢であるべきだと思っています。ただ、どれだけを提供するか、どれだけを提供できるか、それは先生各々によって違いますし、提供する内容によっても異なることでしょう。職人さんなどの長年の努力と経験を必要とする技術などは、教えたいと思っても簡単に伝えられるものではありませんから。
私は自分の持つ知識のかぎり、時間のゆるすかぎり、10を尋ねられたら10以上を伝えたいと思い多くの方に接しています。自分の思いどおりに伝わらないことは想定されることとして、気長に、根気よく、くり返し話すよう心がけています。
ご縁のあったすべての方に満足していただくことはできなかったとしても、できるだけ多くの方に満足していただけるような技術と知識を提供したい。そして私からの提供によって、安心と前向きになれる心の持ちようを得ていただきたい。この思いこそが私にとっての、「先生」と呼ばれる者としての心がまえです。

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