違和感 という感覚を大切に

私が書かない言葉、発しない言葉が2つあります。それは

 ~してあげる
 ~を与える

私のまわりにいる方も私が発するこの2つの言葉を、きっと聞いたことがないはずです。なぜなら、まず使わないから。使わないようにしていたら、意識しなくても使わないようになっていました。

なぜか。

買っておいてあげるから、してあげるから、連れて行ってあげるから。よくこの言葉を使う人が身近にいて、ずいぶん前に 言葉の響きに違和感を感じてしまってから、自分自身では使わないようになりました。「買っておいてあげるから」は「買っておくから」 でいいわけですし、「してあげるね」は「するね」でいい。「連れて行ってあげるね」は「連れて行くね」で十分通じるわけ。

「~を与える」に関して言えば、「影響を与える」という使い方はかなり一般的であり、世の中で頻用されていると思いますが、この場面でも使いません。自分が「影響を与える」場合には「影響を及ぼす」としますし、自分が「影響を与えられた」場合には「影響を受けた」としています。他にも 「刺激を与える」「感動を与える」「衝撃を与える」などもよく使われますが、私はいつも、なにかしらの言葉に置き換えています。
そもそも授与、投与、給与、賞与など、上の方から下の方へ向かうような方向性をもつ言葉です。そういったイメージをもつ言葉を、上下関係のない日常で使わなくてもいいのでは と考えているわけです。

もちろん、どちらも日常的に使う言葉ですから、みなさんが使うことを否定するつもりはまったくありません。ただ、自分自身は使わないようになっています。この習慣は、自分が「~してあげる」「~を与える」という言葉を使うことに対する違和感を感じたことからはじまったもの。違和感を感じること には、その違和感をスルーすることなく、一度じっくりと正面から向き合うことも必要なのかもしれません。

それは言葉の使い方のみならず、人とつき合う上での違和感や生活環境の違和感、一日の時間の流れの違和感など、なんについても当てはまることでしょう。違和感を感じたことについては、変える余地があるということ。変えることによって、きっとより良いなにかが生まれるだろう ということ。だからこそ、自分が感じた違和感 という感覚を大事にしたいと思っています。

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