自分の名前において言葉を語ろう
ぜひ最後まで読んでください。
先日、東京大学教養学部の学位記伝達式で東京大学教養学部長の石井洋二郎さんが卒業生に贈った言葉を目にしました。
かつての東大総長であった「大河内総長」によるはなむけの言葉『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになれ』 私は初めて耳にした言葉なのですが、東大生には有名であるというこの言葉が、実は
1「大河内総長」自身の言葉ではなく本当はイギリスの哲学者である「ジョン・スチュアート・ミル」の言葉であった
2 元の論文を翻訳すると『満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。』であり、ソクラテスに『なれ』とはどこにも書いてないし、そもそもニュアンスはかなり異なる
3 しかも卒業式の原稿には書いてあるけれども当日は総長がそこを読み飛ばし、実際には本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまっており後世に名言として語り継がれている
つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているということになります。まず「大河内総長」自身の言葉ではないし、引用もニュアンスはかなり異なり、そもそも言っていない ただの一箇所も真実を含んでいないにもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなってしまっているとのこと。
このことから、石川洋二郎さんはこう語っておられます。「私たちが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。」
まさに今のネット社会における問題を浮き彫りにしたかのような言葉に、読みながら頷いてしまうほどでした。
あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と目と足で検証してみること。
私たちが学ぶ内容もご多分に漏れません。目の前で講義している人の言葉が真実であるか、それは聞いた人が確認する必要があるわけです。そしてその確認作業によってより深い理解につながるわけ。
さらに言うなれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されている。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」
これは今年の春、東大文学部の卒業生が答辞として話した言葉だそうですが、まさにその通り。
聞いたもの、見たもの、配られた資料 丸写し そこに、丸写しした人の名前は刻印されません。逆に本来は、それを発した元の人の名前が記されているわけです。
自分の名前において言葉を語りましょう。いただいてきた言葉に威力はありません。人を深く納得させられるだけのパワーもありません。上っ面の言葉はあくまで上っ面を通り過ぎるだけ。
自分の名前において言葉を語ろう。
こう言いたくなるような出来事に出会い、私の名前においてこの記事を書きました。文書、キャッチコピー、話した言葉、音楽、絵、イラスト、写真、すべてに発した人の名前が刻印されています。どうぞみなさん、ご自身の名前において言葉を語る人であってください。そして発した者の刻印をrespect する、そんな人でいてください。